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ご来場ありがとうございました

ひとりで歌うグレゴリオ聖歌27 演奏会

諸死者のためのミサ

「入祭唱」の演奏はこちら

聖霊降臨後第12主日のミサ

2019年10月30日(水)

19時30分開演(終演予定20時30分頃)

大阪市中央公会堂 第5会議室

入場料2000円

 

収益のほぼ全額を以下の災害義援金として寄付させていただきました

日赤令和元年台風第15号千葉県災害義援金 2000円
日赤令和元年台風第15号東京都(島しょ地域)義援金 1000円
日赤令和元年台風第19号災害義援金 3000円

ご​参考動画

こちら(山本太郎 被災地の現状に唖然 -九州北部豪雨の今- 全国ツアー九州佐賀編)

こちら(山本太郎 台風19号被災地宮城県丸森町を訪ねて全国ツアー東北編​)

こちら〔ローマ教皇フランシスコ 東日本大震災被災者との集い(東京2019.11.25)〕 

〈被災者の方々(3人)の言葉 33:40〜  教皇様のお言葉 45:50〜  全文(文字)はこちらから

こちら〔教皇ミサ(長崎2019.11.24)〕

諸死者のためのミサ

 

使徒書簡朗読

(コリントの人々への第一の手紙 15:51-57)

兄弟たちよ。

さあ、ここでわたしは、あなた方に一つの神秘を告げます。わたしたちは、みながみな眠りに就くわけではありません。

しかし、わたしたちはみな変えられるのです。最後のラッパ(a)が鳴り響くとき、たちまち、一瞬のうちにそうなります。

ラッパが鳴り響き、死者は復活し、滅び去らないものとされ、そして、わたしたちは今とは異なるものに変えられるのです。

その滅び去るはずのものが、滅びないものをまとい、また、この死ぬはずのものが、死なないものをまとわなければなりません。

この滅び去るはずのものが、滅びないものをまとい、この死ぬはずのものが、死なないものをまとう時にこそ、

聖書に書かれている言葉が成就するのです。

「死は勝利に呑(の)まれた。

死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

死よ、お前の刺(とげ)はどこにあるのか」。

死の刺は罪であり、罪の力は律法です。

しかし、わたしたちの主イエス・キリストを通して、わたしたちに勝利を与えてくださる神に感謝します。

 

(a)当時のユダヤの黙示文学では、「ラッパ」は、歴史に対する神の介入を告げる道具としてしばしばみなされていた。

本節の「最後のラッパ」は、キリストの来臨、すなわち「代の終わり」(終末)と神の国の成就とを告げる徴である。

福音書朗読

(ヨハネによる福音書5:25-29)

その時。

イエスはユダヤ人たちに答えて仰せになった、

「よくよくあなた方に言っておく。

死者が神の子の声を聞く時が来る。

いや、今がその時である。

その声を聞いた者は生きる。

父はご自分の内に

命を持っておられるように、

子にも自分の内に

命を持つようになさったからである。

また、父は子に裁きを行う権能を

お与えになった。

子は人の子だからである(b)。

驚いてはならない。

時は迫っているからであり、

その時には、墓にいる者はみな、

人の子の声を聞く。

そして、善を行(おこな)った者は、

復活して命に至るために、

悪を行った者は、

復活して滅びに至るために出てくる」。

 

(b)「子(イエス)」は、受肉によって、われわれと同じ人間としての体験を持つので、人を裁くにふさわしい。

聖霊降臨後第12主日ミサ

 

使徒書簡朗読

(コリントの人々への第二の手紙 3:4-9)

兄弟たちよ。

これほどの確信を、わたしたちはキリストによって神の前に抱(いだ)いています。

自分自身から何かが生じるなどと認める資格がわたしたちにあるのではありません。

かえって、わたしたちの資格は神からのものです。

神は、わたしたちを新しい契約に奉仕する、つまり、「文字」にではなく「霊」に奉仕する資格ある者としてくださいました。

「文字」は人を殺し、「霊」は人を生かすからです。

もし、石に刻みつけられた「文字」によって死に仕える奉仕が栄光に包まれ、モーセの顔にある、消え去るはずの栄光のために、

イスラエルの子らは彼の顔を見つめることができないほどであった(c)とすれば、

まして、「霊」に仕える奉仕がいっそう栄光に包まれていないなどということが、どうしてありえましょうか。

人を罪に定める奉仕に栄光があるとすれば、人を義とする奉仕は、遥かに栄光に満ち溢れているのです。

 

(c) 出エジプト記34:29-30 〔旧約聖書〕

モーセは契約の証しの二枚の板を手に持ってシナイ山を下った。

モーセが山から下ったとき、主と話し合ったために自分の顔の肌が光を放っていることを知らなかった。

アロンとイスラエルの子らみながモーセを見ると、彼の顔の肌が光を放っていたので、彼らはモーセに近づくのを恐れた。

 

〈注釈〉

ここで「文字」と「霊」は、「石の板」に「文字」で刻まれた律法が、

シナイ山でモーセを通して与えられることによって公布された「古い契約」と、

キリストを通して与えられ、ペンテコステ(聖霊降臨)の日に聖霊が天から降(くだ)ってくることによって公布された「新しい契約」とが、

対立するものであることを表すのに用いられている。

「文字」は、それが命ずる倫理的な定めを実行する力を与えず、したがって、人間を必ず死へと導くので、「人を殺す」と言われる。

他方、新しい契約において与えられた「聖霊」は、神の意志を示すだけではなく、

それを実行する力をも与えることによって、「人を生かす」のである。

 

福音書朗読

(ルカによる福音書10:23-37)

その時。

イエスは弟子たちの方を振り向き、特に彼らに仰せになった。

「あなた方が見ているものを見る目は、幸いである。あなた方に言っておく。

多くの預言者や王たちは、あなた方が見ているものを見ようと望んだが、見ることができず、

あなた方が聞いていることを聞こうと望んだが、聞くことができなかった」。

すると、一人の律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして尋ねた、

「先生、どうすれば、永遠の命を得ることができますか」。

そこで、イエスは仰せになった、

「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるのか」。

すると、彼は答えた、

「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

また、隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります」。

イエスは仰せになった、

「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、生きるであろう」。

すると、彼は自分を正当化しようとして、

イエスに「私の隣人とは誰ですか」と言った。

イエスはこれに答えて仰せになった、

「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗に襲われた。

彼らはその人の衣服をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにして去っていった。

たまたま一人の祭司がその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。

また、同じように、一人のレビ人(びと)がそこを通りかかったが、その人を見ると、レビ人も道の向こう側を通っていった。

ところが、旅をしていた、一人のサマリア人(じん)がその人のそばに来て、その人を見ると憐れに思い、

近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をした。

それから、自分のろばに乗せて宿に連れていき、介抱した。

翌日、サマリア人はデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿の主人に渡して言った、

『この人を介抱してください。費用がかさんだら、帰ってきた時に支払います』。

さて、あなたは、この三人のうち、強盗に襲われた人に対して、隣人となったのは、誰だと思うか」。

律法の専門家が、

「憐れみを施した人です」と言うと、

イエスは仰せになった、

「では、行って、あなたも同じようにしなさい」。

​(「聖書」フランシスコ会聖書研究所 訳注 より)

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